Mag-log in店員が空の器を下げに来た。コーンスープのカップには、黄色い跡が薄く残っている。あの夜の紙カップは、一口も飲めないまま処分された。今日は底まで飲めたからといって、傷が薄くなるわけではない。
ただ、冷えたものを冷えたまま覚えている必要は、少しなくなった。 席を立つ前、景都が言った。「次に会うなら、離婚届を見つけた朝のことを話したい」「景都から話したいの?」「俺から話したい。……無理になったら言って」 今度は、その言い方に腹が立たなかった。 次に会ったのは、平日の夜だった。駅ビルの喫茶店は閉店前で空いており、磨かれた窓に店内の照明が映っていた。コーヒーマシンの音が遠くで鳴り、店員が入口近くの椅子を一脚ずつ整えている。 景都は水を一口飲んでから、離婚届を見つけた朝のことを話し始めた。「玄関に十五分いた」「十五分?」「たぶん。時計を見た時、君が出てからそれくらい経ってた」 ダイニングテーブルの中央へ離婚届を置き、私は最名前はない。キスはする。他の人とは会わない。昼食の店だけは決まっている。 店へ入ると、灯は三人席の奥へ座り、私を自分の隣へ呼んだ。景都は向かい側。完全に事情聴取の配置だった。「昼休み二十五分だから、今日は聞かないでおく」 灯はメニューを開きながら言う。「助かる」 灯はメニューを開いたまま、午後は逃げないよう念を押した。「仕事あるんだけど」「終わったらでいい」 取り調べは保留になっただけらしい。 景都が水を飲む。灯はその手元を一度見てから、急にメニューへ戻った。 注文したあと、三人とも仕事の話をした。新しい物流拠点、販促写真、LATTICEの監査日程。名前のない関係が目の前にあるのに、昼休みは普通に終わる。 店を出る時、灯が私の袖だけ引いた。「あとでね。三十秒じゃ終わらないから」 逃げられないらしい。社会へ戻った途端、私たちの間では通じていた曖昧さが、他人には説明できなくなった。 灯に捕まったのは、午後の打ち合わせへ戻る前だった。 エレベーターの扉が閉まると、灯が開閉ボタンから手を離して私を見る。「で、昨日のあれは何だったの」「午後の写真選び、始まるよ。三十秒じゃ終わらない」「終わらなくていいから、入口だけ教えて。付き合ってるの?」 五階に着いた。私は先に降りたが、灯も開きかけた扉を肩で抜け、当然のようについてくる。「付き合ってはいない。でも会ってるし、デートもしてる」「それを普通は付き合ってるって言うんじゃないの」「普通の話ならね。私たちは……」 続けようとして、言葉が止まった。元夫婦で、キスをして、互いにほかの人とは会わない。それでも、まだ恋人とは呼んでいない。その順番を三十秒で説明すると、私たち自身まで番組の選択札へ戻される気がした。 灯は私の顔を見てから、声を少し落とす。「深見さんも真帆も、ほかの人を探す気はないんだよね」「うん。そこは決めた」 灯は私の顔を一度眺め、モニターへ目を戻した。「じゃ
『これ、君が嫌いなやつだろ』 甘いクリームが山ほど乗った写真に、『よく覚えてるね』と返す。『前に一口でやめた』 結婚中の話だった。 覚えていることと、今の私を知っていることは違う。だから週末、私はその店へ景都を連れていき、甘くないレモンケーキを頼んだ。 景都はレモンケーキを見て、前はケーキも嫌いだっただろうと言った。「今は、これなら食べる」 彼の知らない五年を責めるつもりはない。「今知ったじゃん」と皿を彼の方へ寄せた。 景都は一口欲しいと言った。私はフォークで端を切らず、皿ごと寄せる。「自分で取って」「そのくらい自分で取るよ」「じゃあ聞かないでよ」 景都は小さく眉を寄せ、自分のフォークで一口だけ取った。 その帰り、駅の人が少ない場所で短くキスをした。離れた直後、景都の手が腰へ触れ、身体が反射的に強張った。彼の手がすぐ離れる。「ごめん」「違う。嫌じゃない。びっくりしただけ」言い訳みたいに早口になった。景都は何も言わず、半歩だけ距離を戻した。◇ 月曜の昼、会社近くで景都と待ち合わせた。取引先へ渡すサンプルをLATTICEの担当者に預けるだけの予定だったが、時間が合ったので一緒に昼食を取ることにした。 店の前で灯と鉢合わせた。「え」 灯の目が私から景都へ動く。「深見さん、お疲れさまです」「宮坂さん」 仕事の挨拶だけなら何もおかしくない。 問題は、景都が私の手から自然に紙袋を取ったことだった。 景都は私の手から紙袋を取った。持ち手が細く、指へ食い込んでいたからだという。「軽いし、自分の商品なんだから私が持つよ」 軽さではなく、痛そうだったから、と返される。私は持ち手へ手を伸ばした。「じゃあ返して。持ってほしくなったら、私から言うよ」 景都は名残惜しそうに、素直に返した。 灯が黙る。 その沈黙が不自然すぎて、私の方が居心地悪くなる。「真帆、ちょっと待って」「何? 昼休み、短いんだけど」
「俺は付き合いたい。君と会って帰るたび、また次もって思ってる」 迷いのない返事だった。それでも、私に同じ答えを求める言葉は続かなかった。 嫌ではない。むしろ嬉しい。けれど『恋人』と口にすると、次は泊まるのか、身体を重ねたら復縁なのか、家族や会社へ何と言うのかまで一気に浮かんだ。昔の夫婦へ戻る道を、また順番どおり歩かされるようで怖かった。「私、まだ『恋人』って言うの、ちょっと怖い」「何が」「言ったら、その次まで一気に戻りそうで」 信号の電子音が鳴り始める。人が動く。私たちは一拍遅れて歩き出した。「でも、景都が誰かとデートしたり、誰かを探したりするのは嫌」 景都がこちらを見る。「俺も嫌だ」「じゃあ、ほかの人とは会わない?」「俺は最初から会うつもりない」「私も」 景都は間を置いた。「でも、恋人って呼びたい」「今は待って」 景都が息を吐く。「……待つ。でも、嬉しくはない」 駅ビルへ入り、食品売り場の前を通る。景都がコーヒー豆を見て立ち止まり、私は先に数歩進んだ。「それ買うの?」「切れそう」 景都は棚から一袋取り、裏面を確かめる。「前と同じ?」「変えた」「何に?」 景都が選んだのは、知らない銘柄だった。 恋人という名前は決められないのに、こういう知らないことなら今日一つ増やせる。 レジを出たあと、私は自分から景都の手の甲に指を一度触れた。 握らない。 景都も握らない。 袋の焙煎日は昨日だった。古い豆は嫌だという。「前は深煎りだったよね」「最近は朝に飲むから、軽めの方がいい」 私は知らなかった。景都も私の塩パンを知らなかった。五年分を埋めるには、たぶんこういう小さいことの方が多い。 駅へ向かう途中、景都のスマートフォンへ着信が入った。仕事の電話だった。私は二、三歩先を歩く。景都は二分ほどで切り、追いついた。「待たせた」「
二度目はさっきより長かった。景都の呼吸も整っていなかった。離れた唇を追わないよう、顎に力が入っている。その顔を見て、彼が何を止めているのか分かった。私の身体も、同じ続きを知っていた。 夫婦だった頃にも、数えきれないほどキスをしたのに、離れた瞬間、初めてみたいに息の仕方が分からなくなった。 離れた瞬間、白い病室の天井が一瞬だけ浮かんだ。 嬉しいのに、別の記憶が混ざる。 景都の手が私の肩へ向かいかけ、途中で止まった。 景都が名前を呼んだ。「大丈夫。……たぶん、嬉しい方が大きい」 白い病室の記憶を言葉へしようとする気配がしたので、私は袖を掴む。「今は、大丈夫。もう少し、このままでいたい」 景都は何も尋ねず、私が袖を掴んだままでいられるよう、腕を下ろした。 離れた唇がまだ熱かった。私はその熱まで怖がらずにいられた。「水、買おう」「喉乾いた?」「ちょっと」 自動販売機で、景都は水を二本買った。一つを渡され、私はキャップを開ける。一口飲むと、ようやく息が落ち着いた。景都も半分ほど飲み、目が合うと照れたようにボトルへ視線を落とした。 橋の手前で、私は出張の話へ戻る。「楽しかった」「そうか」 景都の声に何か混じった気がしたが、聞かなかった。 三度目のキスはしなかった。欲しくなかったからではない。景都も求めず、私も袖を掴んだまま歩き出した。帰り道が残っている。次に会う理由も残っている。 駅へ向かう途中、乗換案内をめぐって笑った。キスをした直後なのに、話しているのは互いの終電だった。その普通さに助けられる。 ホームへ下りる前に振り返ると、景都はまだそこにいた。互いに手は振らない。階段を下りても、掴んだ袖の感触だけが指に残っていた。 キスをしたからといって、翌朝から何かが分かりやすく変わるわけではなかった。 景都から来たメッセージは、『昨日、帰れた?』だった。『帰れた』『そうか』 ハートも、恋人らしい言葉もない。私も付けなかった。 次
海外のホテルから東京の台所へ食生活の文句を言っている。その状況がおかしくて、私は声を出して笑った。 通話を切る前、景都が「明日何時から」と聞いた。 明日は八時半からだと言うと、景都は「もう少しで切ろうか」と聞いた。向こうにも、まだ仕事が残っているらしい。「じゃあ、切るね」『嫌だ』 思いがけない一言に、指が終了ボタンの上で止まった。「え?」 一拍遅れて、景都が視線を逸らした。『……今切られるのが嫌だ。仕事は残ってるけど、それは後でやる』 私は追及しなかった。聞き間違いにしてあげるほど優しくもないので、笑みを残したまま何も言わない。「景都」と呼ぶと、画面の向こうで顔が上がる。「帰ったら、会いたい」 今度は景都が黙った。『俺も』 窓の外へ目をやると、隣のビルのオフィスはまだ明るい。東京の景都も、たぶん同じような時間を過ごしている。 今は、画面の向こうに知らない台所があり、冷蔵庫の中のヨーグルトまで見える。 明日も同じ時間に、と言いかけてやめた。毎日と決めると、急に窮屈な気がした。「また、話したくなったらかける。景都も」 画面の向こうで、彼は一拍だけ考えてから頷いた。『分かった』 その返事を聞いてから、私はようやくノートパソコンを閉じたままでいいと思えた。 帰国した翌日、景都と夕食を食べた。 出張の話は半分くらいしかしていない。売り場の広さ、辛すぎた麺、ホテルの冷房。仕事の報告ならいくらでもあるのに、会ってしまうとどうでもいい話ばかりした。 店を出ると、まだ二十一時前だった。 景都は駅の方向を示した。私は知っている、と答えながら反対へ歩く。「逆だ」「少し歩きたい」 それだけで、景都は理由を聞かず進行方向を変えた。 川沿いの遊歩道を並んで歩く。何度か手が当たりそうになったが、どちらも繋がない。 出張前の玄関を思い出す。顔が近づき、景都が止まり、私が袖を掴んだ朝。「そろそろ駅へ戻る?」と景
『着いた』 ホテルの机には、現地スタッフから渡された店舗資料が置かれていた。英語と中国語が混ざった紙の端を揃え、明日の集合時間を自分のカレンダーへ入れる。景都なら移動時間まで五分刻みで入れそうだと思い、集合時刻だけにした。 その夜、会社のグループチャットへ到着報告を送り、母にも短く連絡する。景都だけ特別な報告先にしたくないのに、窓の写真は彼にしか送っていなかった。 十五分後、景都から返事が来た。『眺めがいいな。夕飯はこれから?』『食べた。麺が辛すぎた』『写真は』 私は食べかけの皿を送った。『赤いな』と返ってきて、声を出して笑った。 今度は、返事を待たずに靴を脱いだ。 二日目の仕事が終わったのは、現地時間の二十一時過ぎだった。 ホテルへ戻り、靴を脱いだまま窓際の椅子へ座る。昼間に見た売り場の写真を整理しようとノートパソコンを開いたが、五分で閉じた。 景都から昼に一度、『どう』と来ている。『売り場広い。想定よりバッグ大きい』 そう返してから、やり取りは止まっていた。 電話をかける理由はない。 明日の打ち合わせ内容なら会社の人に話せばいい。ホテルの部屋も安全で、困っていることもない。 それでも、ビデオ通話のボタンを押した。 三回鳴って、景都が出る。『何かあった? 声、疲れてる』「何もない。体調もホテルも普通。……用事はないけど、ちょっと顔を見たくなった」 言ってから、画面の自分へ目を逸らした。『うん。俺も、顔が見たかった』「そういう言い方、ずるい」 画面の中で、景都は開いていた郵便物を伏せた。視線がこちらへ戻る。『今日は、よく話すな』「だって、顔が見えたから」 画面の向こうは、景都の自宅の台所だった。白いマグと、開いた郵便物。夫婦だった頃に住んでいた部屋ではない。私の知らない生活の背景だ。 私は今日の売り場で、色を一つ増やした方がよいと言われたことを話した。景都はすぐ写真の有無を聞いたが、仕事の相談をしたくて電話したので







